12月18日 朝

起こったことはすべて正しい、と最近、素直に思えるようになった。一見、失敗と思われることもよくよく見直すと、そこには小さな気づきがいくつも隠されている。しかも失敗と思われた体験は後に思い起こすと、ほとんどすべてがプラスに転化していることに思い至る。これは一般にセレンディピティと呼ばれており、実際に多くの場面で遭遇する真理だ。と同時に経済評論家の勝間和代氏の著作名にも似ている。自分が過去形なのに対しあちらは現在進行形。今著のなかに「目の前にあるパーソナル資産をなるべく有効活用する」という箇所があって、例として「エイラ――地上の旅人」シリーズを紹介している。古代を舞台にした冒険活劇だが、ざっと物語を紹介すると、エイラはクロマニヨン人で、生まれた村が地震で全滅したのち、偶然、そこを通りがかったネアンデルタール人に命を救われる。そのままネアンデルタール人の村で育つも、そこにはさまざまな葛藤があり、それでも愚痴らず、誹らず、ものともせず、与えられた環境のなかで自分の才能を生かし未来を切り拓いていく。昨日、たまたまルノワールの作品集を見返していて、ルノワールの日課というページを読んだ。ルノワールはパスカルの言葉を好んでよく引用していた。「人間に興味を抱かせたものはただひとつしかない。それは人間である」ルノワールの絵の多くが人物像で占めていることからもわかるように興味の対象は常に人間にあった。もちろん、生活費を稼ぐためという喫緊の事情もあり、フランスのブルジョワジーの人物画も多く残すが、そこには純粋な喜びがあった。そう、ルノワールは描くことを至上の歓びとした。これが他の画家との違いだ。ルノワールに必要なものは理屈ではなかった。21歳のとき、本格的に絵を学ぶため、エコールデボサールのグレールのアトリエに入ったルノワール。ある日、グレールはルノワールの製作振りをみて皮肉交じりに「キミは楽しんで絵を描いているようだね?」と訊ねる。ルノワールは快活にこう応えた。「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」印象派の巨匠ルノワールにとってすべてをありのままに受け入れることこそが人生の重要なテーマだった。楽しいから描く。楽しくなければ描かない。そこには不自由な理論も固執する主張もない。先述した偶然とたまたまは実際は必然だった。エイラがネアンデルタール人に命を救われたことは偶然ではない。たまたま、ルノワールを手にしたわけでもない。すべては必然であり、起こるべくして起きた。ひとの一生は宿命づけられている。要はどのように受け止めるか。「人間に興味を抱かせたものはただひとつ」それはひとによっては大自然であったり、はたまた宇宙であったりもするのだろう。昔を思うと、他人の土俵ばかりで戦っていた気がする。ホストは向いていなかったし、集団社会は窒息寸前だったが、今、考えれば“今”を形成するためには、どれも必要な経験だった。神が与えたもうたパーソナル資産の有効活用。これが、このごろの関心事だ。晩年、リューマチで自由を失った手に絵筆を巻きつけ、それでも描くことをやめなかったルノワール。彼の絵には強力なヒントが隠されている。おそらくそれは多幸感だ。彼の絵には幸せしか感じない。
posted by せつな at 08:27Comment(0)日記