12月28日 朝

フジテレビの月9ドラマが最低視聴率を更新して終わった。1度も観たことがないが冒頭で安部首相を揶揄するような演出があったと聞くだけで大体の想像はつく。製作陣の無能さはいうまでもないが、左派的な主張が濃ければ濃いほど視聴者は離れるという現実をおもいしってなお反省のない姿勢には呆れる。いまだそうした勢力が力を持っているのかと勘繰りたくなってしまう。どうせ政治を扱うのなら山尾しおり氏をモデルにした主人公のでたらめさ加減をこっぴどく叩くというドラマのほうがよほど当たる気がする。それをできないのが今のフジテレビのフジテレビたるゆえんかもしれないが、未来のないテレビに期待を寄せるのも馬鹿馬鹿しい。ここ十数年、視聴者、ひいては国民世論もそこそこ鍛えられてきたように感じる。とりもなおさず左派連中の楽観的思い込みと適当な未来予測が寄与した結果といっていい。かつて左派が唱えたボーダーレス社会は単純明快だった。貧しい国が富めば争いはなくなる。しかし実際はさらなる確執を生んだに過ぎなかった。国力の増大は傲慢に直結し競争の激化を呼んだ。その果てに新たなカテゴライズが構築され世界は再編された。ただ順位が入れ替わっただけで変わらずマネーゲームを繰り広げている。こうした状況を間近に垣間見ることのできるネット世代の自衛本能はイデオロギーが蔓延した70年代など及びもしないだろう。少数派と多数派の意味を正しく捉え自らの一票を投じる。そこには何の気負いもない。淡々と当たり前のことを当たり前にこなしていくだけ。こういった人たちが増えるとビジネスサヨクは成り立たない。どのみち社会構造を変えようなどと思っていない。そんな知恵もなければ予測もない。あるのは不満と憎しみだけで世の中を引っ掻き回したいだけの連中。民衆の敵がいるとすれば、まさしくこの手の集団でフジテレビのドラマの致命的欠陥はここにある気がしないでもない。観ていないので詳しく知らないが。確実に変わったなあと思うのは話題性のあり方だ。無色透明より嫌われもののほうが視聴率が稼げるといわれたのも今は昔。先日も正義のみかたを観ようとテレビをつけたが桝添氏が映ったとたんすぐに消した。統計を取ったわけではないが、こういうひとは多いのではないか。ながらテレビの視聴時間が減り、ながらスマホの視聴時間が右肩上がりに増加傾向というニュースが示すように取捨選択の自由は着実に広がっている。嫌な時間を惰性で過ごす必要はない。メディアが必死に煽る先般のサッカー、日コリ戦も視聴率は低迷した。代表の試合は欠かさない自分ですら観なかった。今後、観ることもない。勝っても負けても不愉快さしか残らないからだ。100対0で勝とうが100対0で負けようがどうでもいい。選択肢は観ないの一択しかない。テレビの視聴者数は確実に減ってきているが、並走するように世の中はどんどんおもしろくなってきている。純粋にデジタルコンテンツが発展したからだ。この流れはとどまることを知らない。テレビドラマが生き残るすべがあるとすれば答えはドクターxにあるのかもしれないし、再放送にあるのかもしれないが、ひとつだけいえるのは猛省なきフジテレビに明日はないということだ。いやがらせの数々を忘れるには日はまだ浅い。
posted by せつな at 07:20Comment(0)日記

12月27日 朝

1週間ぐらい前の日経に2016年度の一人当たりGDPが載っていてOECD35カ国中、日本は18位だった。統計をさかのぼることのできる1984年以降で最高位は2000年の2位。最低位は一昨年の20位。1位のルクセンブルクに続いて上位の多くは人口の少ない小国で、6位米国を筆頭に先進7カ国のなかで13位カナダ14位ドイツ16位英国に次いで日本は5番目に位置している。これをどう読み解くべきか。一応、20位フランスのうえにはあるが日本の経済力からすれば少し寂しい。いっぽうで人口が多く経済発展のめまぐるしい支那、インドの一人当たりGDPも伸びてきており、日本の39000ドルに対して、支那8124ドルで10年前の4倍、インド1709ドルで10年前の2倍と成長率を高めている。円高、ドル安を背景にした昨年度とは違い、おそらく2017年度の統計ではもう少し下がるはずだ。もしかすると最低位を更新するかもしれない。よく拝見させてもらっているブログに「外から見る日本、見られる日本人」がある。先日のエントリーで最近の日本人の金銭感覚を取り上げられていた。それによると、10数年前まで日本人だらけだった居酒屋がすっかり地元民に入れ替わっているという。その理由は、金がない、外食は高い。バンクーバーでは1000円で飲食できるものといえばファーストフードがぎりぎり、ラーメンも無理という。確かに日本人の感覚からすれば高すぎるきらいはあるが、要は日本人の金銭感覚が変わってしまったことに尽きると記事は提言している。ラーメンは高くてもピザは安い。日本は逆。その感覚でいくと、確かに金銭感覚はめっきり変わってしまった。先の一人当たりGDPが示すように今の日本人にダイナミズムを求めるのは難しい。その根本には価値観の推移があり、それを後押しするように精神的支柱であった日本経済の低迷がよりいっそうの拍車を促した。日本人はすっかり変わってしまった。かといって、嘆く必要もない。また、変わればいいだけだ。先般、97.7兆円という来年度の国家予算がまとまったが、それに比して新規国債発行額は減っている。税収も好調だ。一説によると戦後2番目の好景気は持続中という。庶民に実感はなくとも儲かっている連中は多いということだ。働いて金を稼ぐという時代は終わったのかもしれない。もっというと働くという概念が変わったのかもしれない。以前はひたいに汗してなど、苦痛のイメージで語られた労働スタイルも昨今は頭脳を駆使してが浸透してきているように思う。お金の実感はもはや紙幣にはなく電子マネーや仮想通貨といった数字に置き換わってきたようだ。クレジットカードの利便性をおぼえると財布は無用の長物に過ぎない。重いしかさばる。キーケースがカードキーに切り替わり、指紋認証や顔認証といった生体認証が主軸となる日も近い。いずれキーもなくなる。当時を思い返せば、たばこ、ライター、キーケース、財布、携帯電話の5種が必携品だった。めんどうな時代だ。グーグルの次世代型開発はスマホをも駆逐するだろうし、もしかするとカードを持ち歩くことすら必要なくなるかも。そうした時代の訪れを感じていれば、将来に悲観すべき理由もない。
posted by せつな at 07:57Comment(0)日記

12月26日 朝

朝ごはんを食べながらテレビを観ているとヘンゼルとグレーテルを題材にした模擬裁判のようなことをやっていた。しばらく見入ったのだけど、これは道徳の授業ではよく用いられる手法なのか以前にも見かけたことがある。最近、世の中を賑わせているのがこれと同様で「もし桃太郎が鬼にも家族がいることを知ったらどうだろう」という岡山県の教師の問いかけ。ソースである朝日新聞の記事は「多様な価値観がぶつかりあう時代に異なる視点の持つ大切さを考える」と伝えるが、はっきりいっておとなでも詭弁の嵐になるだけで教育の観点からすれば疑問符が浮かぶばかりだ。まして思考の骨格のできていない中学生に議論させる意図はなんなのか下衆に勘繰りたくなる。先ごろ、国連を舞台に日本が議長国として安保理をとりまとめたのは記憶に新しいが、その際の米国と北コリアの応酬は見ものだった。北コリアの主張は観点を変えれば国際社会を納得させるものであり、根拠も明確だった。従来通りの説明で、どういったかというと「米国の核の脅威から自国民の平和と安全を守るための自衛的手段である。核の不拡散で最初に裁かれる国は米国だ」これに対する米国側の回答は「北コリアの核保有は絶対に認めない。彼らだけが緊張の原因であり、彼らだけが責任を負う」で北コリアの発言を一言も掬い上げることはなかった。ディベートの基本は相手の用いる言葉の引用をたくみに避けること。これによって主導権は左右される。先の道徳の授業で教師の訴えるべきは視点の多角化にあるが、そんなものを押し売りして生きる人間は信用に値しない。隣人を愛せよと説法するいっぽうで自宅玄関の施錠は欠かさない連中。人間を襲うヒグマの親子の光景も熊の視点ではほほえましく映るだろう。ほら、残さずたあんと食べて大きくなりなさい。しかし、喰われている人間が自分の家族としたらほとんどの人間は発狂するだろう。たたみいわしだってジェノサイドだ。多様な視点を持つことが自身の利益につながることもあると気づくのは一定の年齢に達してからだ。中学生にさせるべきは議論ではなく学習だ。桃太郎は善で鬼は悪。これを論理的に教えるだけでいい。昔、グリーンマイルというベストセラー小説と映画があったが、登場人物の死刑囚全員いずれ刑を執行される立場にある。これは確定的でいかなる理屈も言い分も間にはさむ余地はない。作品も終盤に差し掛かると、焦点は冤罪か有罪かに当たるだけで、死刑囚そのものの人格をそんたくすべきではないことが暗に示される。法律の発端はまさにそこにある。リンゴを選択したら無罪。金を選んだら死刑。洗練されたからといって現在の裁判制度はこの延長線を逸脱するものではない。論理的思考の完成を目指すのであれば必要なのは哲学ではなく数学だ。サヨク教師によってねじ曲げられる価値観ほどいびつなものはない。
posted by せつな at 07:27Comment(0)日記