12月31日 朝

先日、和食さとで昼食をいただいた。28日に行ったのだけど、すでにランチメニューはなく本当は御膳にしたかったのだけど仕方ないのでミニどんぶりをふたつ選べてミニ麺がつくというセットにした。注文方法はタッチパネルだった。ほかにラミネートされたメニューも用意されていたのでこういう利便性をとてもありがたく感じた。しかし世の中そうしたひとばかりではなくタッチパネル方式を店側の都合で客に負担を強いるシステムと感じるひともいる。ソースは週刊ポスト2018年1月1.5日号のライブドアニュース。特に中高年の意見を載せているが、こういった見方のほうが主流なのか?なるほどなあと思った。意見のすべては批判的なものだ。「妻と2人で入った居酒屋で、間違えて生ビールを一度に7杯注文してしまった。明らかに不自然な注文のはずだが、私たちに確認もせず、平然とテーブルに並べた店員には空恐ろしさすら感じた」「操作方法がわからず近くの店員に声をかけたら、タッチパネルでお願いしますと言われた」などなど。明らかに不自然な注文というのはそれこそ人のものさしで、7杯という数字にサラリーマン拝の注文を思い出した。逆にずいぶん前だが、某ニューミュンヘンでやたら注文を確認する年配の店員がいて辟易とした。注文を繰り返すのではなく、ほんとに大丈夫?思ってるより大きいよ?呑めるの?小さいほうがいいよ?等の諭されるパターン。大丈夫です、呑めますから、間違ってないですからと説明しながらも、内心では、ええから、さっさと持ってこいと毒づいていた。個人的にはタッチパネル方式の是非ではなく、タッチパネルそのものに工夫が欲しいと願っている。タッチパネルにもいろいろあって、ipad方式もあればスシローやくらのような固定式画面のものもある。どちらかというと可動式のものが好みかもしれない。回転寿司は店によって設置場所が異なる。やたら高い位置のときもあってあれは首がつかれる。チェーン店の居酒屋やカラオケボックスでは、たまに古すぎて反応しないものがある。なぜか高確率で出会う気もするが、2軒目以降ではたいてい酔っ払っているのであのイライラ感はできれば体験せずに済ませたい。記事は最後に「私のように“そんなもんに付き合わされるぐらいなら、高くてもちゃんと注文を取りに来てくれるお店のほうがマシや!”という人もいるはず。客が入店前に選べるよう“当店はタッチパネル注文です”と店先に掲示してくれるとありがたいですねぇ」と締めくくっている。そこまで気にしたことはないが、これはそうかもしれない。先般の和食さとでは、注文してから運ばれてくるまで結構、遅くて、別に待つのはかまわないのだけど、本当に注文が通っているかちょっと不安になった。されど、そういった心配もタッチパネルの履歴によって確認できるのが値打ちだ。労働者の不足によって外食産業の形態は確実に変わっていく。AIやロボットの活用は今後さらに進んでいくのはまず間違いない。セルフ化、自動化の波も避けられないだろう。20年後、タッチパネルがお店ファーストなどという認識も改まる。否が応でも改まる。そうした時代を生き抜くには自分が変わるしかない。注文を間違えたのは客であって店員ではない。店員は注文を受けて注文どおり正しく7杯届けた。これが意味するものをもう少し掘り下げたほうがいい。差別化できるとしたらまさにこの点で、それこそ経営者の視点というものだ。
posted by せつな at 08:24Comment(0)日記

12月30日 朝

久しぶりにビッグボーイに行った。メニューが変わっていてよりシンプルになったようだ。ワインリストもハウスワインのグレイフォックス一種類しかなかった。これしか頼まないので別にかまわないが、もう少しアルコールメニューを増やしてくれたらなあと思う。気になったのはホールスタッフの疲労度で皆、一様に疲れていた。明らかに集中力も欠いているようで、ほかの客を座席に案内するとき、ナイフ、フォーク等の入ったカトラリーの棚にぶつかってしまい派手な音を立て何ケースか散乱させてしまったのをみた。年末ということで忙しいのだろうが、理由はそれだけではないだろう。絶対的に人手が少ない。しばらく眺めていたら、だいたいの状況は把握できた。フロアを担当しているのは女性3人で厨房に男性1人。広大な店内のサービス概要。どうやらそれが全容のようだった。サラダバーの補充も途切れがちだ。まだ時間が早かったのでそれほど席が埋まっていなかったにもかかわらずサービスは滞りがちで昨日は肉の日でもあったし先が思いやられるなあと酔っ払いの傍観者に徹するうち、気にもとめなくなっていた。ハンバーグとワインの相性は変わらず秀逸でエビフライもカレーも健啖に貢献した。満ち足りた気分で会計を済ますと、レジの最中もやはり疲れた様子で、欧米ならこういうとき多めにチップを渡すのだろうなと思いながらそそくさと店を後にした。夕食前にもわりと呑んでいたので完全に千鳥足と化した図体が重く感じた。とかくブラックと揶揄される外食産業だが、普段、チェーン店を気軽に利用できるのも従業員のこうした努力のおかげであって、たまに行き過ぎた雑言をサービススタッフに吐くひとを見かけるけど、ああいうのを見ると本当に気の毒に感じる。2018年は転換の時期になる。大手も副業を認めるというし、今年、低価格商売の根幹が揺らいだように来年はいっそうの変化を体験することになるのだろう。それは客も従業員も同様で変化の波はすぐに定着するはずだ。映画レザボアドッグスの冒頭はレストランのチップについて話し合うシーンからはじまる。時給が低くても稼ぎは悪くないのがあちらのサービススタッフだ。マドンナもここから成り上がった。日本のサービス業界もワタミの駆逐、すき家の反乱、くらの内情暴露と立て続けに露見したここ数年で多少は覚醒した感がある。これは日本の労働市場全般に当てはまることかもしれないが反抗はまだはじまったばかりだ。
posted by せつな at 08:29Comment(0)日記

12月29日 朝

いよいよ今年も残りわずかとなった。個人的にもやり終えた感がある。今年もがんばった。あとは来年。年の瀬も押し迫り、最後の最後になってあの南コリアとかいうちょっと信じがたい低俗国から低劣なニュースが届いた。深く触れる気はない。こちらまで穢れてしまいそうだからだ。あの国のことわざ「泣く子は餅をひとつ多くもらえる」を地でいっているとだけ記す。国交断絶と滅亡を祈るばかりだ。一切の関わりを持ちたくない。大阪ミナミで水商売をしていた人間にとって、在日コリアンの存在はまさに混在というべき身近なものだった。普通に働いているだけでさまざまな在日コリアンと出会うことになる。当時はかなりオープンにカミングアウトするひとがほとんどで、それは昼社会とは異なる夜の特性なのか、現在がどうかも知らないが、とにかく出自を隠そうとするひとは少なかった。ある大箱のマスターも在日だった。当時のミナミのスーパースターだ。「親が韓国人やから情に厚い」というのが酔っ払ったときの口癖だった。雑多なミナミの夜において突出してイケイケなのは在日コリアンというぐらい有名人のほとんどは在日だった。そのなかのひとりは日本人に対してある種の偏見を持っていた。それは接してみれば明らかで、自身、嫌がらせにも数多く遭遇した。そういった類のひとも多かったが、逆に心底、格好いいと思えるひとも何人かいた。先のマスターなどもそうで、店を辞めるとき、最後にかけられた言葉は今でも鮮明に覚えている。「お互い、かっこええ男でおろうな」あのときはジーンときた。おごり癖のあるひとが多かったイメージもある。それも一人や二人分ではなく、場の全員分を持つというようなおごり方だ。よくいえば豪儀だが、悪くいえば見栄っ張りな印象を記憶している。あれから時は流れた。あのころ、ほとんど知らなかったコリアン社会の暗黙のルールや独自の言い回し、儒教文化、国の体制、見聞きしたものもあれば、実際の体験もある。神戸のコリアンクラブにも一度、行った。来日まもないバンドマンのギターを借りてスタンドバイミーを歌ったのはいい思い出だ。ヨン様に似てるともいわれた。あれはほめ言葉だったのだろうか。もちろん、書物を通じた知識の蓄積もある。特にオソンファ氏やコウブンユウ氏の著作には感銘を受けた。多くを端的に知るには最適のテキストだと思う。年配者から聞いた今おもえばかなり的確な傾向、趣向なども学習に寄与した。似て非なるものという故事がある。一見、似ているようでまるで違う別物。知られざるパラレルワールドを紐解いた結果、この認識を得るに至った。英国にルーツを持つ米国などとは違い、これは東アジアの特性ともいえる。お互いの不幸はお互いを知ることからはじまる。ウィンウィンの関係を築きたいのであれば、お互い干渉しないこと。つまり、国交断絶ほど都合のいい結末はない。一切の関係を絶つこと。断言する。これが真の信頼関係につながるもっとも有効な方法だ。
posted by せつな at 07:58Comment(0)日記