9月30日 朝

希望の党の小池代表が民進の合流に対して、リベラル派は排除すると言い切った。民進党の失敗の核心はまさにここにあった。2代政党制を急ぐあまり、なりふりかまわず野合した結果、あの有象無象の寄せ集めとなった。当初は右は西村氏から左は外国人というありさまだった。ブログでなぜ日本には独逸やフランスのようにリベラルという選択肢がないのかと訴えるひとがいた。事実誤認もはなはだしい。選択肢はある。それをいうならば、なぜ日本ではリベラルが説得力を持たないのかが正しい。リベラルが政権を取るという悪夢を近年、日本は二度も経験した。心底、疲弊し、みたびあってはならないことだと学んだ。それが前述したなぜリベラルは説得力を持たないのかにつながる。リベラル票の多くは共産党に流れるだろう。リベラル派にとって唯一、希望を感じられる政党だからだが、いわゆる左派の旗手であっても一般リベラルの嗜好とはずいぶん異なる。さすがに共産党に一票を投じるのをためらう穏健派の票は無所属と少数政党に流れ、結果的に票をどぶに捨てるような幕切れとなるのが手に取るようにわかる。最近、スマートパークという駐車場形態をちょくちょくみかけるようになった。発券機、駐車券、ゲート機、ロック板の存在しない駐車場だ。カメラによってナンバーを読み取り、それで清算するシステムだが、24時間カメラによって監視されているとはいえ、無清算で出て行く輩はいないのだろうかと疑問を抱いた。調べてみると違反者の数は従来のものに比べむしろ少ないらしい。欧米ではロック板をかけられていても平然と無視する人間も多いと聞く。こうしたシステムは日本だからこそ成り立つともいわれている。最近よく日本と支那を比較する記事を目にするが、確かに支那では通用しない気がする。支那人による自販機強奪事件も記憶に新しい。現在は防犯カメラや盗難防止ブザーなどによって障壁を設けているが、訪日外国人の少なかった当時はまったくの無防備だった。車を運転する訪日外国人はまだ少ないし、このシステムの駐車場を利用するのはことのほか気持ちいい。先進国の民度の高さを実感するからだ。なぜ日本のリベラルは凋落したか。なぜ支持されないのか。理由はこうしたところにあると感じる。欧米やアジア諸国と比べ、日本は智的格差の領域が格段に狭い。米国などみているとノーベル賞を連発する秀才がいるいっぽうで、とんでもないアホが混在しているのが現実だ。いまだに文盲も多い。健全で勤勉な日本人は学習したのだ。多様性などと曖昧模糊とした戯言も近頃の日本では食傷気味だ。グローバリゼーションなるまやかしは結局のところ日本人の所得を減らし、技術を献上し、低成長を長期化させる起因となったに過ぎない。日本だって得をしただろうと反論するひともいるだろうが、本当に儲かった国はどこだ。直視してほしい。利益率の度合いがかけ離れている。かけそば一杯すするために分厚いステーキをごちそうするようなものだ。リベラルの創造する世界は虚構だ。リベラルの語る政治は空想だ。理想とはフィクションを土台とするものであってはならない。グレートギャツビーにこんなセリフがある。物事のふるまいの基盤は固い岩である場合も沼沢の場合もある。ギャツビーの理想とする世界は常に現実と向かい合わせのところにあった。こうなりたい、こうありたいと願う気持ちに他人をたぶらかす邪念はない。残念ながら日本には邪念に突き動かされたリベラル政治家しかいないように感じる。どいつもこいつも他国の利益ばかりを優先する。長年の思考のすえ、ひとつの考え方に行きついた。政治保守、経済リベラルという形が自分にとってはもっとも居心地がいい。選挙戦がはじまった。
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9月29日 午前中パート2

民進党左巻き連中の難民化が止まらない。まったく、どこもかしこも難民だらけだ。ヨーロッパばかりと思っていたら、ミャンマーでは50万人ものロヒンギャが国境を追われバングラデシュに詰め掛けてきているという。バングラデシュの外相は「深刻さはもはやヨーロッパの比ではない」と日経のインタビューか何かで答えていたが、短期間でこのような膨大な数の人間が流入するところを日本に置き換えて考えてみてほしい。おそらく一瞬で終わるだろう。非現実的空想的よもやま話ではない。朝鮮有事で実際に難民が押し寄せてくるかもしれない危機を今日の日本は迎えている。武装難民に対しては射殺、という麻生副総理の上げ足を取って左巻き連中が騒いでいたのも、結局のところ、難民に対する施策がまったく取られていないことが原因に尽きる。しかもただの難民ではなく、日本に敵対する勢力の見本市のような国家からの流入だ。山口組三代目の手記をはじめとするあの戦後すぐの三国人犯罪の暴動記録などは今読んでも背筋が寒くなる。あの時代を生き抜いた女性が強いのは当然と納得するしかないような苛烈さだ。世界中を駆け巡るキーワードのひとつがまさかの変節を経て、この国では「政党交付金返すのいやいや集団」通称、民進党に感染した。希望の党では合流志願の民進党出身者をABCでランク分けしている最中という。それはそうだろう。原口氏と辻元氏ではまるで色合いが異なる。元社民の阿部知子氏にいたっては「安保法制がどうとか、憲法観が違うというのとは別に、私は小池さんと十分やっていける」と支離滅裂で意味不明な媚びへつらいを垂れ流す始末だ。民進出身のリベラルに明日はない。今日もない。しかるに昨日もない。そのことを思い知る選挙となるだろう。豊田氏、山尾氏とほかにも興味は尽きないが、真打の上西氏は不出馬となった。第7区選挙民としては今度こそ奈落に突き落としてみせようと躍起になっていた矢先でひじょうに無念だが、これはこれで朗報と受け止めよう。ついでに第7区選挙民として声を大にしていっておきたい。渡嘉敷氏を無事、トップ当選させ、上西氏はきっちり落選に追いやった。比例で復活させたのは維新だ。今後は芸能事務所に所属し、タレント活動をはじめるというが有権者の鉄拳制裁を甘くみてはいけない。このはげーで思い出したが守銭奴にしてもどこやら庶民を舐めてかかっているふしもあって不愉快千万ではある。だが、無思慮に一票を投じたジジババももうすぐいなくなる。復活の目はないだろう。選挙年齢も引き下げられた。主役交代もすぐそこだ。短い交歓だった。民進党よ、さらば。
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9月29日 午前中

作家のスチーブンレイヴァンの質問。「あと1時間しか生きられず、たった一人にしか電話ができないとしたら、だれに電話をかけてなにを言いますか。それに、なぜじっと待ってるんですか」待っていていいことなどひとつもない。今日という日は今日だけだから今日を生き抜くだけ。日経の今月の私の履歴書は湯川れい子氏だ。当初は読む気などないと一蹴したが、結局、欠かさず目を通している。今日を含め、あと二日で終わる。一昨日だったか、氏は老衰で母親を亡くすのだけれど、そのときの描写が家族愛に満ちていてほろりとさせられた。兄は仕事から帰ってくるとまず母のもとに参じ「母さま」からはじまる挨拶やちょっとした会話をする。ときにはおちょこ一杯の酒を酌み交わす。朝は出勤前に寝床に向かう。ご機嫌はいかがですかと話してから出かける。これが湯川氏の兄の日課だ。姉は毎朝8時に電話を寄越す。湯川氏もどこの国にいようと夜9時に必ず電話をかけ、母親とたわいない会話を交わす。ある朝、いつものように兄が母のもとに向かうと静かに息を引き取っていた。このエピソードを読んだとき、ふいに自分の母親のことが浮かんだ。私はふた親をすでに亡くしているが、ふたりとも死に目には逢っていない。今おもえばなんという親不孝なことかと悔やんでも悔やみきれない。湯川氏やそれを取り巻く兄弟姉妹には昭和の風情が漂っている。小津安二郎の映画や向田邦子のドラマのような家族の風景だ。私は三人兄弟の末っ子だが、そろそろ周りでも一人っ子の家が珍しくなくなった世代だ。一人っ子と聞くと、単なる偏見かもしれないが、バブル期のドラマ、コンビニエンス物語の第一話に登場する子どもを想像する。鍵っ子なる言葉が世を席巻するバブル期の申し子のような冷めた目のガキだ。無口で、笑わなくて、どこか寂し気で、頼りなくて、それでいて強情で人を寄せ付けない空気をまとっているような子ども。湯川氏を取り巻く環境にこういった寂寞さはない。少なくともそう感じさせない家族の必要以上のふれあいが垣間見える。昭和時代には3人以上が当たり前だった子供の数も昨今の少子化の流れのなかに埋没するように今日では当たり前ではなくなった。別にそれでいい。時代が変わったといえばそれまでのことだ。ただし、核家族化で変貌を遂げたのは何も若年世代だけではない。高齢者の価値観も21世に則した形に確実に変わってきている。当たり前といえば当たり前かもしれない。バブル期にはそのドラマにおいて独身貴族の象徴のようだった田村正和氏が後期高齢者の年齢に差し掛かろうとしている。いっぽう、普遍的で変わらないものもある。それが愛のチカラだと思う。子どもの数が減ろうと愛のチカラまで弱まるわけではない。人生は永遠ではない。永遠ではないからこそ、今日を生きる。昨日を生きることも明日を生きることもできない。あるのは、つねに今日だ。孝行したいときに親はなし。胸に染み入る。タイムマシンがあれば別だが、ないから今日を大切にしよう。大切なひとと今日をともに過ごそう。それでは民進党の悪口に移りたいと思います。
posted by せつな at 10:15Comment(0)日記