12月6日 朝

冬にチェスターコートをよく着るようになったそもそものきっかけは一冊の雑誌を立ち読みしたからだった。雑誌の表紙を飾っていたのがチバユウスケ氏。検索すると、2018年10月号のsense、だと思う。だと思う、というのは表紙だけで内容がわからないからだが、たぶんこの号だと思う。とまれ、表紙を務めているぐらいだから、当然、チバユウスケ氏の特集が組まれていた。ファッション雑誌なのでファッションの話がメインだった気がするが、そのときのコーディネイトがよかった。氏が手掛けるブランド、サンディニスタエクスペリエンスのチェスターコートとラバーソール。通常、チェスターを羽織るときはニットが一般的かもしれないが、氏はウエスタンシャツのようなものを合わせていた。このときの恰好が決まっていた。チバユウスケ氏といえば、ロックなイメージでその容姿がカバーされている感が少なくないけれど、細目でしゃくれ、どちらかというとぶ男の部類に入るかもしれない。ただ、彼はセンスがよかった。Tシャツを着ようが、コートを羽織ろうが、それはもうロックファッションなのだ。ロックな世界観に誰もが酔いしれる。ロックはスーツか革ジャンとヘイヘイヘイでいっていたが、ロックはかっこよければなんでもよいのだった。ロックを愛し、ファッションを愛し、そして、酒を愛した男。11月26日といえば、ひとっぷろ浴びて、酒をしこたま胃袋に流しこんでいた日だ。サウナでさんざ汗をかき、水風呂とサウナ。サウナと水風呂。サウナで血管が広がり、水風呂で血管が収縮し、それを何度も何度も繰り返し、最後は熱い湯で締めくくり。あーとはのーむだけー、と嘯いていたときかもしれない。今日はダムドでも聴こうかな。もちろんアルバムはマシンガンエチケット。

12月5日 朝

冬至が近づき、めっきり夜が明けるのが遅くなった。あれ、めっきり夜が更けるのが早くなった。めっきり朝が明けるのが遅くなった。まあいいや。夜中、のどが渇いて、水を飲みに起きる。時計を見ると、もう朝だったりする。こんなに真っ暗なのに。ただ、まだ起きたくないので、ベッドに戻りスマホを眺めながらしばらくごろごろする。日が昇る。東の空がうっすら明るくなりだすころ、ようやく布団を持ち上げるといった具合。冬の朝を実感する。冬の朝の定番といえば、温かいお茶、温かい珈琲、温かいごはん、温かい味噌汁と温かいが冠するほうがしっくりくるが、冬の朝も当然、冷たいドリンクで目覚める。最近はもうめんどうなので、夏の電解質摂取を引きづったままアクエリアスゼロを飲むことが多い。その後、電子ケトルで湯をわかし、温かい飲み物と移るのだが、考えてみると、こういったルーティンは自宅やホテルという安心空間であるから可能というか、容易なわけで、これをキャンプの朝に当てはめると、事情が異なる。というわけで、今朝の注目トピックスは「キャンプ離れした人たちの実感」というもの。心配で安眠できない、なぜ遠くに行ってカップラーメンを食べるのか、腰が痛い、など、興味深い見出しが続く。オートキャンプ白書2023を見ると、近年のキャンプブームはピークは過ぎて、キャンプ人口が減り続けていることがわかる。どういうことか。それが前述の見出しの解説へと続くのだった。キャンプというものを一度だけしたことがある。正直、二度とごめんだと思った。親愛なるわが友スペンサーはいう。ポールの「田舎のほうがきれいだと思わない?」という質問に対し、こう答える。「どうかな。おれは都会が好きなんだ。人々が作ったものに関心がある。シカゴに行くと、高層ビル群を眺めるのが楽しみだ」同感だ。日常から離れたかったらホテルに泊まればいい。寝袋よりシモンズのベッドのほうがいい。特に冬の朝。星がきれい?朝が気持ちいい?どうかな。ホテルから見る夜景は最高だし、暖房の効いた部屋で目覚めるほうが心地いいのでした。

12月4日 朝

焼肉安安に行った。ひさしぶりに行くと、肉が一回り小さくなっていた。こんな激安店にもステルス値上げの波が押し寄せていたとは、というか、激安店こそ、物価上昇の余波を受けやすいのは世の常識として、それはそれで現状を楽しむしかないのだった。うれしい誤算としては290円でごはん食べ放題というサービスが爆誕していた。ちょうど、座った席の隣がごはんスープバーだった。食べ放題が復活したのでこのやり方のほうが手間も時間もかからず、利益率も高まるのだろうとおもったらすっとこどっこいそうはいかのきんたまたこがひっぱる。単品でごはんを何杯も食べる輩がきっと現れるはずで、そうなると、このサービスもいつまで続くかわからない。今のうちにしっかりいただいておこうとスープとごはんを三杯づつきっちり平らげたのだった。限定飲み放題でハイボールを流し込み続け、肴はあぶったガツ(190円)とハツ(190円)でいい、でしみじみやられた日には店が泣く。涙がポロリとこぼれたら、悩んだすえのよだれもん。というわけで、すっかり酔っぱらった激安の一夜だった。最近は口を開けば物価高騰、テレビをつければ値上げの嵐とか、いやな言葉を聞かない日はないといっていいが、こうして激安店を利用したり、見切り品を買ったりと、生活防衛を繰り広げるなか、朗報がないわけではなく、その筆頭が酒のほそ道の最新刊なのだった。12月19日発売。すでに予約注文を済ませたが、なんと最新刊54巻が770円と一昔前の価格に戻っていた。52巻792円。53巻では814円と過去最高を更新し、さすがに内容もマンネリであるし、ここらが潮時か、と思っていた矢先の値下げだった。高すぎて売れなくなったのか、物価高騰が少しは落ち着いたのか、さだかではないが、潮時を撤回し、注文した。届くのが楽しみ。

12月3日 朝

気づけば12月に入っていた。今年も残り一か月。光陰矢の如し。いろいろなところに行ったなあ、いっぱい映画みたなあ、本も読んだなあ、服も買ったなあ、といつも通りの今年だった気がする。なので、別に総括もないなあ、という感じ。来年もこんな感じだったらいいなあ、という思い。そんなわけで、今朝のニュースを紐解いていくと「タトゥーOKの求人増加中、USJに美容院や事務でも…お客様の価値観も変わってきている」というトピックスから。タトゥーではないが、最近、特に実感するのがカラーリングをした店員の増加。一昨日もららぽーとに出かけたが、紫、赤、黄色とカラフルな面々が愛想をふりまいていた。一昔前は茶髪が主流だったが、今では絶滅寸前というか、あまり見かけない。茶髪ブームのあとは黒髪ばかりとなり、黒髪が終わってカラフルになったという時系列かもしれない。翻って、自分に照らし合わせてみると、個性を謳っていても無意識にこの流れに沿っている気がしないでもなく、しかし、まったく違うという自負心もあったりする。はじめて髪を染めたのは14歳のときだった。このときはオキシドールを髪に塗ってドライヤーで乾かすという当時の保守本流に倣う形で脱色デビューを飾ったのだった。本格的にブリーチしたのはもう少しあとになって、中学三年生の夏休みのときだと思う。ウェラトーンのブリーチを用い、金色にした。はじめてにしては上出来だった。こうして書いていて思うのは染髪と脱色の違いであり、赤、青、紫、青と染髪も多かったが、人生のほとんどは脱色だったということに気づいた。もう黒髪に戻すことはないと思う。そういう意味ではタトゥーを入れているひとも同様だと思う。タトゥーを隠すことなく働けるならそれでいいんじゃないか、と。でも、トレッドミルで隣のひとがタトゥーだといやかも、とも思う。

12月2日 朝

先日、奈良に行ったとき、河島英五邸のまえを通った。bgmは晩秋。河島英五氏が見た晩秋の木々を背景に氏のつくった晩秋を聴くというのがひとつの夢であったから、夢がかなった形となった。ほかにも、のんべ、いくつかの場面、湾岸ハイウェイブルースなど、名曲だが、あまり耳なじみのなかった歌が胸にしみた。「のんべでアホな女と、いい加減な男ー、うまくいくはずないわ、試してみないでもー」とはいえ、世間では結構、こういう二人が長続きしていたりもする気がしないでもない。映画すばらしき世界でもしびれるセリフがあった。主人公、三上の就職祝いをする宴で、梶芽衣子さん演じる身元引受人の妻がいう。「私たちって、もっといい加減に生きてるのよ」実直でかたくなな性格の三上を慮った言葉だが、こういう感覚をしばらく忘れていた。忘れて生きていた。アニメとなりの山田くんにも似たセリフがあった。「適当、適当にね」あれも、しびれた。bgmがいくつかの場面に変わる。「まぶたを閉じれば、数々の思い出が胸をあつくよぎる、そしていつも心をはなれない、いく人かの人たちがいた」これにはジュリーバージョンがあって、聴き比べると、ふたりの歌の跳ね方の違いが顕著に伝わってくる。キャッツのメモリーを歌う俳優さんの跳ね方の違いにも等しい。そういえば、なぜ、ジュリーと呼ばれているのか。検索する。ジュリーアンドリュースの大ファンだったから。なんじゃそりゃ。ジュリーとサリー。サリーとジュリー。ジュリーは歌う。サリーはベースを弾く。bgmがまた変わる。旅の途上。発売時期は前後するが、CMにも使われたこの歌はおそらく最後の大ヒット曲であり、河島英五の魅力のすべてが詰まった傑作。「人恋しさに飲んだ酒が、なお人恋しくさせる、年がら年中、恋焦がれ、人生、旅の途上」隠し蔵を見かけるたびに氏を思い出すことだろう。

12月1日 朝

映画すばらしき世界を観た。ずっと観たかった映画のひとつだが、Amazonプライムに追加されていた。やった。早速、観た。ひとことでいうと、刑務所帰りの男が更生する姿を映し続けるヒューマンドラマなのだが、モデルとなった人物しかり、主演の役所広司氏しかり、脇の出演者しかり、とにかく見ごたえのある映画だった。しゃばは我慢の連続です。ばってん、空は広かちいいますよ、というセリフで泣いてしまった。三上さん、少し持って帰る?のシーンでまた号泣。二夜連続で鑑賞会。観てよかった。人生は奇跡の連続だ。あらためて学んだ。あとは、東淀川に、はま寿司がオープンした。東淀川市内初のはまー。当然、勇んで参戦した。予約なしでは無謀というわけで、むろん、予約を入れたが、取れた時間は1時30分。少し出遅れたようだった。道が空いていたせいか、1時に到着。チェックインを済ませるが、客待ちが店内はおろか、店外にもあふれている。一応、店内での受付もしておく。ネット予約が先か、店内予約が先か。ネット予約が先に呼ばれた。あれ、なんで、あとから来たくせに、という視線に軽い優越感。店内はぴかぴかの新装。どこかに似ているな、と思ったら、茨木園田の魚べいに似ている。魚べいには及ばないが、高速レーンが上下二段ある。事前情報通り、回転レーンはない。代わりに手元のタッチパネルだけでなく、画像が流れる据え付けのタッチパネルから注文できるシステム。こちらのパネルには値段表記がない。ビジュアルがすべてのなかなか優れたシステム。気づけば高い寿司ばかり注文、ということも。はま寿司にはあまりいい印象を持っていなかったが、結句、そういった先入観が消し飛ぶような新しいスタイルの回転すしだった。テーブル席は昨今の新店に多い少し狭めの設計。テーブル幅は縦65センチぐらいで、従来の回転すしチェーン店に比べ、かなり手狭な印象。しかし、これが適正幅かも。魚べいが撤退して悲しかったが、しばらくは、はま寿司ブームが続くかもしれない。

11月30日

兼六食堂がつぶれていた。看板がない。メニューの洪水のような入り口が見当たらない。検索すると、2022年8月16日に閉店したことがわかった。創業何年か知らないが、相当、古いだろうなとおもわれる外装。店内に足を踏み入れると、町中華というよりは一杯飲み屋のような雰囲気。いつも決まって入口のすぐそばの席に座らせてもらっていた。向かって左が厨房。大将とその奥さん、それに娘さんか従業員かわからないが、店員がもうひとり。奥に小さなテレビ。配達にでかけるときはさらにその奥のドアを通って外に出る。日之出商店街の道幅は1.5メートルぐらいだろうか。狭い路地を抜けると、もうそこは大学の通用口に一直線という感じで、学生らしき若者と通りすがるのが日常風景だった。この店を知ったのは10年ぐらい前のことで、以来、えべっさんのときに訪れる定番となったが、付近の大学生にとっては馴染みというより、もう家族のような存在だったかもしれない。商店街のなかには大学oBと銘打つ店もある。ふぞろいの林檎というドラマがあったが、ドラマのなかに出てくる中華屋のような趣があり、引き戸を開けると、いらっしゃいと出演者の声が聞こえてくる気がするのも毎年のことだった。200円のラーメンと聞くと、どのような姿かたちを想像するだろうか。昔は幸楽苑やスガキヤも同じような値段で提供していたかと思うが、2022年のコロナ当時にも価格を変えることなく営業を続けていたかと思うと、頭が下がるというか、涙がちょちょぎれるというか。しかしながら、おまちどうさま、とテーブルに置かれたラーメンを見ると、おそらく、それは誰が見ても、まあ200円ぐらいだろうなと納得する佇まいなのだった。あのラーメンを食べることはもうなくなった。孤独のグルメに、あの店のない銀座かあ、というセリフがあったが、似た思いが今、胸に迫るのだった。

11月29日 朝

寝屋川のえべっさんに行った帰り、必ずといっていいほど寄っていた店がつぶれていた。その名は兼六食堂。付近に大学があり、そこの学生御用達の激安店だった。注文したことがあるメニューを挙げると、カレーうどん280円。あんかけうどん220円。ラーメン200円。うどん170円といった具合だ。むろん、立ち食いではない。なんばにあるようなカウンターだけの店内でもない。定食にしても300円台400円台というちょっとにわかには信じがたい価格帯で長年、営業されていた。最後に行ったのがコロナの最中だったから、たぶん、2021年のえべっさんのときだと思う。特にお気に入りがあんかけうどんだった。頼めばショウガを多めに入れてくれる。寒く凍えたカラダを熱々のうどんで温める瞬間は至福だった。奈良に行った帰りについでに寄ってみることにした。たいてい、旅行帰りは朝食バイキングでおなかがいっぱいということもあり、なかなか昼食メニューが決まらない。貴重な人生の一食を飛ばしてしまうのももったいない。というわけで、いつも悩ます旅行帰りの昼食問題だが、たまたまミナーラで見かけたはなまるうどんのあんかけショウガうどんがとてもおいしそうだった。量といい値段といい、これだと思った。だが、断念した。昼食時ど真ん中ということで、長い行列ができていたからだ。とりあえず、ここをあとにし、大阪に帰ってから昼食にすることにした。頭のなかはうどんが6割ぐらい。そうしたなかで、ふ、と思い出したのだった。どうせ帰り道なのだからひさしぶりに寝屋川の兼六食堂に行ってみよう。あんかけうどん220円。これほど現状にぴったりな一品はないと思った。日の出商店街近くの駐車場に車を停めて、歩くこと1分。歴史のほとりに沈んだような古びた商店街の入り口が見える。50メートルないような短い商店街なのだが、格調高き昭和の風情がたまらない。あれ、いつもなら激安と書かれた兼六食堂のきらびやかな看板が光っているはずなのだが。明日に続く。

11月28日 朝

カップ麺は節約か否か。もともとはエックスのとある投稿が発端だった。貧困問題に取り組んでいるはずのこの投稿主の発言が炎上した。要約すると「昼食代を節約しようとコンビニでカップヌードルを買ったら231円。思わずレジの金額表示を三度見した。今後はカップ麺も高級品になるのか」という投稿で、これに疑問符がめいっぱいついた形だが、この論争を記事にしたひとはどちらかというとこの投稿者を擁護するスタンスから「御幣を恐れずにいえば、貧乏人の解像度が低いのは、どちらかといえばこの投稿者に怒りのコメントを寄せている人のほうではないかとさえ感じた」と述べている。どういうことか。つまり「コンビニでカップ麺を買う貧困層という、一見すると矛盾した消費行動をとる人々がいる理由、それは彼らがスーパーで特売の袋めんをまとめて買うほうがお得(合理的)であるといったコンセプトをそもそも持っていないからである」という理由に基づいている。ひとことでいうと、貧すれば鈍する、という理屈。全4ページある見出しから察してみたい。「貧困とは情報量の差ではなく文化である」「貧すれば鈍するは真実」「上質な暮らしがさらに豊かさを呼び寄せる」なんとなく察することができると思う。それで思い起こすのが消されても消されてもユーチューブに上がり続ける某大家族スペシャルのお母さん。彼女の生まれ育った環境に富裕層の習慣がなかった。そう考えると、あのような非合理な行動も理解できる。記事はこうも述べている。「貧しさそれ自体が頭をわるくし、豊かさそれ自体が頭をよくするーー結果として貧困層と富裕層の経済的、文化的、認知的格差はさらに開いていく」寝ても覚めても家計のやりくりを考えている人間と余暇時間を芸術鑑賞や習い事といった教養活動に回せる人間ではおのずから生活レベルにも差が出て当然といえなくもない、というわけで、普段から頭をフル回転させ、スーパーで知恵を振り絞るあなたやわたしはもしかすると相当に洗練された富裕層予備軍なのかもしれないのだった。

11月27日

日本版ブラックフライデーも今日までというところが多い。時代は流れ、いまではサイバーマンデーのほうが売り上げは期待できるとも聞くが、そういえば、ネットで買うことが主流になったなあという実感はある。気軽に購入できるため、自宅で酔っ払ったときなどがやばい。せめて、歯止めの利かないクレジットカードはできるだけ利用すまいとペイペイ払いを選択したりもするのだが、そのペイペイのチャージも一秒で済む時代。いかな節約も物欲のまえにはもはや通用しないのだった。何を買ったかというと、ZOZOTOWNでユーズドの革ジャンとチェスターコートを買った。デザインやコンディションもさることながら、安かったのが購入の主な理由だ。なんでこんなに安いのだろう。売る時も買いたたかれるが、買うときに元が取れる気がしないでもない。昨今の物価高に対抗する手段として、情報量の有無は考慮されるべきかもしれない。無尽蔵にカネを使える人間ならいいが、多くの勤め人はどこかから給料をもらってそのなかでやりくりをしなければならない現実がある。収入が増えないのならば、支出を減らせばいい。そんなこたあ百も承知よ、NBよりはPBよ、定価は無視してセール品さ、鮮度よりも見切り品ね、さまざまな工夫を凝らして、はたまた悔し涙を飲み込んで夕餉の食材を今日も探しにでかけるのでした。と嘯くあなたはもしかすると、すでに相当の情報強者かもしれない。というのもちょっとまえに「本人は節約のつもり…貧困層がスーパーの特売ではなくコンビニのカップ麺を平気で買ってしまう残酷な理由」というプレジデントオンラインの記事を読んだからだ。カップ麺は節約か、否か。ぜんぜん知らなかったが、ネットでこの手の論争が定期的に繰り広げられているという。なるへそ。「先日も、コンビニでフルプライス231円のカップヌードルを節約のために購入したという投稿が炎上した。貧しい人はスーパーで袋麺を買う、といった批判が多かったが、そう怒っている人が理解していないことがある」ふむふむ。明日に続く。